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秋の序章

 台所の床にモップを走らせながら、今朝の京子はテーブルの上にある昨日届いた一枚の葉書に何回も目をやった。それはすっかり縁がないと思っていた父方の「いとこ会のお知らせ」である。妹の尚子にも来ているはずだから、掃除を終わったら電話をしてみようと思っていた。
 父は京子が5歳、尚子が生後五ヶ月の時に亡くなっている。山形の田舎の出身の父は、東京生まれの東京育ちの母と結婚したのだが、八人兄妹ど言うことだったから、かなりの数のいとこ達がいる筈である。
 京子のかすかな記憶の中にあるいとこ達は、父の死んだ後でしばらく暮らしたことのある山形の父の実家の伯父の子供達など五,六人だけである。それも三十年近くも一度も会っていないのだから、逢いたいと切に思うこともない。
 母が自分達を連れて野口と再婚してからは、お互いに何となく遠慮があり、なおさらに遠くなってしまっている父方との関係であった。夫の悠太は「行って見たらいいじゃないか」と気軽に言ってはくれたけれど、すぐに出席の返事をすることには躊躇があった。
「お姉ちゃん、どうする?」
 かかってきた電話は尚子からで、やっぱりその言葉であった。京子の記憶にも薄いいとこ達との会なのだから、尚子が迷うのは当然のことであろう。
「そうね。あんたが行けるんだったら、私も行こうとおもうんだけれど・・・。」
「私はお父さんの顔も何も知らないけれど、いとこがいっぱいいるのは楽しいかななんて思ってるのよ。それにさ、山形に田舎があるなんて、ほとんど幸せよ。どう?お義兄さんは何ておっしゃってるの?」
「行ってみたらいいじゃないかって言うのよ。考えてみると、私たちのお父さんは山形のお墓にご先祖様と一緒に入っているわけでしょ。ご法事なんかも。お母さんが野口にはいってからはみんなあちら任せにしてしまって、お墓参りにも行かないで過ごして来たんだから、こんな時にでも行って拝まないとお父さんもきっと寂しいでしょうね。子供なんだから、私たち。」
「あ、そうね。いけない私ね。お父さんの入っているお墓なんか、すっかり忘れていたわ。お母さんも野口のお父さんも身近にいたから、苗字が違っていてもお墓参りはしているのにね。ホント、ホント。じゃ、行くことにしようよ。おねぇちゃん。うちの子供達も、すっかり自分のことは自分で出来る年だから、一泊ぐらいいつだってできる。それに温泉でっていうのが魅力じゃないの。切符なんかはまかせとうて。新幹線で仙台へ行って、仙山線で山形へ行ってって言うのが早いんだから。」
 明るく応える妹の声をきいているうちに、父の実家への忸怩たる重いが消えていくのを感じでいた。
 残された記憶が薄いとは言っても、父が亡くなったとき5歳だった彼女にとって、母が時折話してくれた思い出の中の父を自分の胸に抱いていたのである。
 母が再婚するとき、十二歳になっていた京子は、それを大切に思っていた父に対する母の裏切りだと思ったものだった。反抗はしなかったが、あの時から母との間に心の距離が出来たと感じていた。
 父の記憶を全くもたない妹は素直に母の夫を、苗字は違うけれども父として親しむことが出来たようである、買い物に出たついでに、「出席します。楽しみにしています。」と、丁寧に書いた返信葉書をポストに落として、カサッと音のするのを京子は確かめた。
 本田清生は山形の地主の三男であった。東京大学農学部の水産学科の助手をしていて、佐久間伸子はその教室の手伝いをしていた。
 山形高等学校を経て東京大学を卒業した清生は、純朴で鷹揚な学生であった。高校時代には柔道をやっていたとかで、体格はよかったけれども、当時としては最も嫌われ津結核性肋膜炎を病んで一年間休学したという前歴があった。
 何かにつけて控えめで、発言することは少なかったが、地道な研究成果をあげて、教授の覚えは悪くなかった。清生の実家の親たちは、徴兵検査も不合格だったし、無理の利かない身体の彼が、大学で静かに研究生活を送ることが出来ればいいとのぞみ、東京の世田谷等々力に小さな家を購入してやり、花嫁修業を目的として裁縫学校などにかよわせる妹たちを同居させて、自分たちも時折上京して暮らさせていたのである。
 一方、伸子の方は、東京育ちで物怖じしない性格だったので、鷹揚で引っ込みがちな清生の世話をやくような形になっていた。同じ世田谷の九品仏に住んでいたので、親しくなるのに時間はかからなかった。
 教授が二人の結婚の仲立ちをしようとしたのは自然の成り行きとも言えた。しかし、反対がなかったわけではない。傍目には頑丈そうに見え、大学の助手であるという社会的地位は、結婚の相手としては申し分ないように見えたが、彼の病歴は伸子の親たちにとっては気がかりなことであった。
 また、清生の側からみれば、会社員の給料取りの娘ではあまりにも育ちが違いすぎる。田舎では地主の息子として何不自由なく過ごさせていたし、病身と言うことでかなりの心配をして貰わなければならないと言うので、東京と言う都会育ちの娘では相応しくないと考えるのが自然だった。
 このような危惧を双方の親たちが抱き、何となくすすまなくなった話は、若い二人をむしろ強く結びつけることにもなり、そのような反対を押し切って結婚すると言う結果になったのだった。
 昭和二十一年二月、戦争が終わったばかりの東京で京子は生まれた。焼夷弾の投下で火災の被害を受けたが、清生と伸子の必死の消火で消失を免れた等々力の家で、伸子の母の手伝いを貰いながら、彼らはどうにか命をつなぐ程度のくらしを続けていた。
 食糧難、交通手段は最悪、農地解放、悪性インフレと続く社会不安で、山形の地主としての生活も以前のような豊かさを失っていたが、時折、清生の兄の元生が少しばかりの米や卵、鯉などをすしづめの列車で運んで来てくれて彼らを幸せにした。
 戦争にかりだされていた大学の研究室の助手たちも何人かが引き揚げてきて、戦争中の遅れをとりもどそうとして乏しい研究費を奪い合っていた。戦争に行かなかったと言う幸運で、清生はその混乱には巻き込まれなかったけれども、静かな学究生活とはほど遠かった。
 そして学制改革が行われたのを機会に、新制大学の助教授に昇格することにはなったものの、給料だけでは妻と子を満たすには足りず、山形の実家の兄から幾ばくかの仕送りを受けたり、食糧の不足を補ってもらったりして、かろうじて混乱の東京生活を続けていた。母はその頃のことをあまり苦しかったとは言わなかったと、京子は思い起こしていた。
 出席の葉書を入れたポストかた家までの道筋に小さな公園があり、片隅の子供の遊び場で、買い物帰りの若い母親が子供をブランコにのせていた。初秋の木漏れ日が差していて、揺れるブランコの上の子供と光が遊んでいるようにも見えた。この光景の中に本当に微かながら、京子に残されている記憶の父がいた。
 妹の尚子が生まれる少し前に、父は結核を再発病して、微熱が続き、大学を休んで療養していた。あれは少し快方に向かったと思われるときだったのだろう。
 等々力の小さな公園の公孫樹が眩しいくらいの黄葉だった。ブランコにのってはしゃぐ私の背中を押しながら、父が笑い、母も笑っていた。暖かい父の手につかまって母と3人で帰ったあの道の明るい記憶。あれが私の父だった。あの公園は いまはどうなっているだろうか。あの時のようにブランコの上で子供が大きな声で笑っている。京子は微笑した。

     ****

 清生の結核は進行していた。化学療法はまだ無かった当時の療法は、大気、安静、栄養という方法しかなくて、対症療法としての解熱剤や、鎮咳剤、去痰剤などを用いて、あとは患者の体力に待つだけに過ぎなかった。
 戦後の物資不足の折から、満足な栄養もとれなかった日本で、結核が恐ろしい勢いで蔓延し、国民病とさえ言われた時代である。まして、清生は既往の結核の再発症であり、肺の機能は低下する一方だったのであった。
 幼い京子への伝染を怖れたのと、間もなく出産する伸子は実家に帰された。すぐ近くに実家があったことは幸いであった。そして、戦争未亡人となって山形の実家に帰っていた姉のミサに入院することになった清生の世話はまかされることになった。
 妹の尚子が生まれたのは入院後、一月ほどしてからであった。重症の肺結核でもはや死を待つような身体になってしまった清生に、いまとなっては格別な治療も手当もないのである。
 冬に入ってからの、時々襲ってくる激しい咳と、しばしばの喀血と、呼吸の苦しさからのがれようとして入院したので、清生もそれを自覚していた。
「その子には悪いが、おれはもうその子には会えないと思う。名前は尚子。高尚の尚。男だったら尚生にしようと決めていたんだが。どうかよろしく頼みます。」
 出産の知らせを伝えると、彼は元生に言って涙を流した。
 大学病院の医師として、清生の中学、高校時代からの同期の友人である菅野がいた。同郷と言うことで元生とも親しい関係にあった。 
 彼は元生に、清生の病状はいつ何時と言う予断の許されない状態であることを伝えていた。X線写真に撮し出された清生の肺には、呼吸の出来る部分がほとんど無くて、心臓が丈夫だと言うことで命をつないでいるようなものだと言った。
 清生たちの両親は既に老齢で当時の交通事情では上京することなどは不可能であり元生とミサは病院につめる毎日を続けていた。新しい薬があったら、高価でもいいから試して見て欲しい。出来る限りの手を尽くして欲しいと頼み込んではいたが、菅野は無言でうなづくだけであった。
 出産後の回復を見て、伸子が面会に来たのは2月初旬であった。
「京子も尚子も元気か。お前にはすっかり苦労をかけてしまって申し訳ないと思っている。俺が死んだらお前の好きなように生きてくれ。兄さんにはそうするように伝えておくから、遠慮しないで相談してくれな。」
 ときどき苦しくなる呼吸をととのえながら、ゆっくりと低い声で話す清生が痩せた手を伸子の方へのばした。ベッドのそばに坐って、その熱であたたかい手をとってやりながら、伸子は声が出なかった。何を言っても無駄だと言うことは目に見えていた。励ます言葉などは空虚でしかない。
「あんまりお話しすると、また咳がでてくるしくなってしまうわよ。私はここにいるから、ゆっくりお休みなさいな」
「今朝、夢をみたんだよ。山形へゆく汽車の中に俺はいた。お前は知らないだろうが、福島県との境の板谷峠を越えると山形はぐんぐん近くなる。汽車がゴトゴト苦しんで登った峠を下るとき、その音がはやくなって、軽くなる。」
清生はゆっくりゆっくり、低い声で話をつづけた。
「学生時代に帰省するときには、その音がヤマガタダ、ヤマガタダ・・・と、聞こえた。その音を聞いていた。夢の列車の中で・・・・。」
「故郷ですものね。いつか一緒に行ってその音を聞きたいわ。私も」
 結婚した年に、伸子は山形を一度だけ訪ねたことがあった。ひどい交通事情の中だったので、清生の夢に見たような旅ではなかった。
 願っても叶わない夢を見る清生があわれで、額の乱れた髪を撫でてやった。
 清生はふっと笑ったようにみえたが、そのまま目をつむって、伸子の手を握りしめた。病室の窓から見える桜の小さなつぼみはまだ固かった。清生が大量の喀血をして、息をひきとったのはあの窓辺の桜が少しだけ色きはじめた頃だった。
「心臓が丈夫でしたからここまで生きて来られたようなものですよ。肺は全くと言ってもよいほどに冒されていましたから、苦しかったことでしょう。」
 菅野は、清生の最期を看取り、解剖にもたちあって、その様子を元生たちにつげた。解剖を受けたその身体は清められて等々力の家に帰ってきた。
 遺骨を抱いて山形に帰った時のことを、京子はかすかに記憶している。午前中に上野駅から乗った列車は、急行と言うのは名ばかりで、板谷峠にかかる頃はもう日暮れに近かった。峠の駅でしばらく停車してあとは下りである。
「ヤマガタダ、ヤマガタダ、ヤマガタダ、ヤマガタダ。」
 初めての長旅で疲れて眠っていた京子は、母の小さな呟きに目を覚ました。母は胸に父の白い遺骨の箱を抱きしめて窓の外を見ていた。涙が幾筋も頬を伝っていた。
「お母さん、なーに?」
「ガタンゴトン、ヤマガタダ、ヤマガタダ、ヤマガタダよ。お父さんと一緒にこの音を聞いているの。」
「ガタンゴトン、ヤマガタダ、ヤマガタダ、ヤマガタダ。」
 京子も母と一緒になって列車の音に合わせて唄った。あのとき母の胸の中で、遺骨の父も笑いながら唄っていたと思う。
 清生は本だけ先祖代々のお墓に納骨され、仏壇にその位牌は納められた。その後一周忌までの一年ばかりを京子たちは山形で暮らした。
 東京とは違って食べるものには不自由しなかったし、元生の子供たちは、小さな京子をすぐに仲間にして、いろいろな遊びの仲間にしてくれた。尚子はまた、父親の顔を知らない子供として皆の同情をさそったが、健康でよちよち歩きが出来るほどに成長した。
 しかし、まだ三十歳になったばかりの伸子の心には複雑なものがあった。等々力の家は、実家の方で世話をしていてくれているが、清生の亡くなったときのままにしてきたものがあり、いつかは整理をしなければともどかしく思われる。
 実家の両親も出来たら上京したらとすすめて来ている。清生の両親や兄妹たちも口には出さないけれども、それは心配の種であったことは否めなかった。
「伸子さん。清生は死ぬ前に私によろしく頼むといったけれど、一体私はどうしてあげたらいいのだろうか。あなたの心に染む方向で、出来るだけの協力はしたいとおもうのだが。」
 元生がこう切り出したのは、清生の一周忌の法要の後であった。法要の為に東京から来ていた伸子の両親の前であった。老いた元生の両親は家の万端をいまでは元生に任せていたのである。
「子供たちの将来と言う問題もあるから、じっくりと考えなければと思っていたので、いままで黙っていたのだが、伸子さんがよいと言うなら、子供たちを私たちが引き取って育ててもいいのだが・・・」
「いいえ、子供たちは私が育てます。清生さんもそうしてほしいと思っているはずです。ただ、私はいつまでもここでお世話になっているのはいけないと思っていました。親たちも東京に来たらどうかと言ってくれていますし、京子が東京の小学校に入学出来るように、上京したいと思っていました。」
「伸子はこの山形には友人もいないし、いないし、出来るならば東京で私どもの近くでくらさせたいのです。」
 遠慮がちに言う伸子の父親に向かって、元生は静かな言葉で応えた。
「生活費や、養育費もかかると思うけれど、清生を分家にすることになっていて、それなりの財産もわけてあり、等々力の家は清生のものとしてあるのだから、それを力にしてお父さん、お母さんの近くで暮らすのもいいと思います。とにかく、あんなに身体の弱い清生に、本当によく尽くしてくれたのですから、伸子さんの気持ちに任せたいと、私は本当に思っているのです。」
 元生の言葉は静かで、伸子と両親は涙をこぼした。
「有り難うございます。我が儘だと思ってなかなか言いにくかったのです。清生さんと一緒でしたら、ここで暮らしてゆくこともいいのですけれど、やはり東京に帰ることにさせて頂きます。子供たちは本田の子供としてしっかり育てますから、どうぞお許し下さい。」
「許すも何も、伸子さんにはこれから長い人生がある。気に染むようにして生きていって欲しいのです。」
 細々とした手続きを終わって、いよいよ伸子たちが上京することになったのは三月の末になっていた。一緒に送って行こうかと言う元生の申し出でを断って、尚子を負ぶい、小さなリュックサックを背負った京子の手を引いて三人は列車の人となった。上野には佐久間の両親が迎えに来るという手はずになっていた。
「着いたら電報をうってくださいね。心配しているから・・・・。身体にはくれぐれも気をつけてね。」
 元生の妻の民江は駅で、小さな京子の手を握ってぽろぽろと涙をこぼした。
 朝早くに清生の墓参をして、別れを告げてきた伸子は、小さな額にいれた清生の笑っている写真を一枚大切に胸に抱いて、彼の生まれ育った故郷の風景をもう一度じっくりと目に収めた。
 三月の山形はまだ雪が残っていて、木々の芽吹きの気配はまだ本の微かであった。

       ********************

 列車は一年前、遺骨と一緒に来たときと同じようにゆっくりと走り、車輪の響きは心をゆさぶった。板谷峠をこえたとき、それまで、おとなしく窓の外を見ていた京子が不意に、
「ガタンゴトン、ヤマガタダ、ヤマガタダ、ヤマガタダ。」
 とつぶやきだした。それは清生との別れの歌のようだった。伸子は何も言わずに京子のつぶやきを聞いていた。
 京子を小学校に入学させた伸子は、復員の人々が仕事に就けないでいたころなのだが、事情を知っている大学の教授に再び学内事務の仕事を世話して貰うことが出来、佐久間の家に子供たちを預けて仕事にでるようになった。
 等々力の家と土地は住むにはかなり広かったので、復員してきた兄の勲がはじめる仕事に余分の土地を使ってもらうことにして、その代わりに、京子たち二人が存分に教育を受けられるような援助を貰うという約束である。何事もなかったように、悲しみを少しずつ薄めて年月は過ぎていった。
 七回忌と言うことで、伸子たち三人は山形へ行った。もう訪れることはないかも知れない清生の故郷であるが、清生との思い出はここにはない。桜はまだ固くちいさいつぼみで、風は冷たく、遠い山並みは雪を被いでいた。 
 法要が終わって、来客が帰り、落ち着きを取り戻した仏間で、伸子は元生夫婦の前にすわって切り出した。
「七回忌の法要も立派にしていただいて有り難うございました。私はこの法要をすませましたら、この本田の家から去らせていただくつもりで参りました。」
「それはどういうことなのだろうか・」
 元生は驚いて問い返した。
「実は再婚の話がありました、それを受けようと決心したのです。こちらには何の断りもいたしませんでしたけれど、佐久間の両親と何度も話し合って決めたのです。」
「それで?」
「私は佐久間の遠縁の野口と言う人の籍に入ることになります。戦争で妻子を失った十二歳年上の人です。でも、清生さんのことを忘れてしまうのではありませんし、相手の方も私と清生さんのことを充分知っての上のことです。それで、私がいつまでもこちらとの縁を続けているわけにはいかないと思うのです。どうかお許し下さい。子供たちも一緒にと言われましたけれども、私は子供たちには本田の名前で過ごさせると決めています。京子と尚子は私と清生さんの子供だからです。」
 最後の言葉をことさらに強く言いながら、伸子は涙がこぼれてくるのを抑えられなかった。「清生さんのやさしさ、おだやかな笑顔。一緒に過ごした日々。決して忘れることは出来ない。私がはじめて愛したあの人・・・。」と、胸の中で叫んでいたのである。
 それを聞いてしばらく無言でいた元生は、静かな声で応えた。
「それはよかったと言わなければならないだろうな。伸子さんはまだわかいのだから、いつまでも縛っておくわけにはいかないだろうし、縁を切ると言うことは心情的にはできないのだけれど、あなたの幸せの為なのだと思わなければなるまい。」
 伸子は堪えきれずに声をあげて、ハンカチに顔を埋めた。そばにいた民江も涙をこぼしていた。
「有り難うございます。」
 嗚咽をこらえながら伸子は深くお辞儀をし、あの清生の写真を差し出した。
「この写真、大事にしてきたのですが、これをお願い致します。私にはどうしていいかわかりません。」
 元生は大きく息をして、その写真を受け取り、幸せそうに微笑している清生の顔を撫でた。
「父や母はなんと言うかわからないが、私は隠さないで話してくれたことを嬉しいと思うよ。幸せになることを妨げてはいけない。清生のことは気にしなくともいい。清生は先祖からの墓にはいっているのだし、寂しいと思うこともないだろう。あの世でみんな賑やかに暮らしているさ。」
 それは元生自身に言い聞かせているような感じの声だった。
 伸子は涙が止まらなかった。「私は決して清生さんと、この家族の人たちにあたたかい愛情を忘れない。幸せになって安心させなければならないのだ。」と、胸の中で繰り返し繰り返し言いながら、うつむいて泣き続けた。
「お母さん、どうしたの」
 外から入ってきた京子が怪訝そうな顔をした。尚子も不思議そうに伸子の顔をのぞきこんだ。
「何でもないの。今夜の汽車で東京へ帰るんだから、忘れ物のないようにご用意しなさいね。お遊びしたあとのお片づけをちゃんとするんですよ。」
「さあ、こっちでお饅頭をあげるからいらっしゃい。」
民江が二人を隣室へ連れていったあとで、元生は封筒を取り出して伸子に差し出した。「そんな話ならば、もっとお祝いをしなければならないのかも知れないが、今日はこれだけしか用意していなかったので、また後でということにする。縁を切るといっても、京子も尚子も私にとっては肉親なのだ。よろしく頼みます。何か困ることがあったら言ってよこしてもいいんだよ。そのつもりでいて欲しい。」
「申し訳ありません。有り難うございます。本当にすみません。」
 伸子は何度も、何度も繰り返した。
 清生の両親や他の兄妹たちが、この話に驚き、伸子を非難するようなことを云った者もあったが、元生夫婦はその言葉を封じた。

       *****

 三十歳になったばかりの母だったので、一人の寂しさにはやはり耐えられなかったのだろう。もし、私があの状況にあったら、母のように気丈に行動出来ただろうか。京子は母のあの時の年齢をもうとうにこえている。
 いつもはあまり気にもとめていないのに、夫が健康でいてくれるありがたさをつくづくと思うのである。。冷蔵庫に貼り付けた一枚の「いとこ会のお知らせ」の葉書が、京子に過去への回帰をさせていた。
 あの時、山形から帰るとき、母が目を真っ赤にして泣いていた。父の死んだときよりも激しい泣き方だったように思う。
 東京へ帰ってから、母があまり父のことを話さなくなった。秋になって野口と暮らすようになってからは、尚更話題にしては悪いような気がして。祖父母といるときも触れることはしなくなった。小さいときから、「お前の性格はお父さんに似ている」とよく云われたものだが、それも言われなくなった。
 本を読むのが好きで、口数が少なく、母を泣かせないように心がけて、よい子として過ごしてきた。野口の父は、とても優しくて分け隔てなくしてくれたのだが、私はかたくなな心をすっかり解くことはついになかったような気がする。
 野口克雄は。佐久間の家の遠縁の者であり、満州から引き揚げてくるときに妻子を喪っていた。帰国してから強度の栄養失調になり、戦災を免れた佐久間の家の離れで静養していたのだが、引き揚げのときのことを語ることはなかった。
 伸子の兄の稔が引き揚げて来て、伸子が本田から貰った等々力の土地の一部を使って印刷所をはじめる時に、戦争中に工業技術者であった野口も一緒に仕事をすることになったのだった。
 何もかもが不足している時代の小さな印刷所の設備を調える為には、彼らの技術が役に立ったのである。仕事は順調に推移して、伸子は大学の事務を退職して、兄の仕事を手伝うことになった。住居と一緒の仕事場だから、京子や尚子の為にも好都合だったのである。 
 父の記憶のない尚子は、野口によく懐き、野口もまた子供を喪っていたこともあって、京子と尚子に優しかった。運命とはそんなものなのだろう。戦後心弱っていた伸子の両親は、二人に結婚を考えるように言った。
 たしかにそれが最良のことで、安心なことでもあった。二人共にお互いの過去を知りすぎるほどに知っている。お互いの傷をいたわり合うことが出来る。
 しかし、伸子の心にはまだ本田清生が生きていたのである。野口の方にもおそらく同じ思いがあったに相違ない。二人はそのこだわりを解かなければならなかった。
 清生の七回忌のあの日、元生にその辛い思いを汲んで励まし、力づけて貰ったおかげで、伸子は新しい一歩をふみだすことが出来たのである。野口との暮らしは安穏であった。理由はともあれ、愛するものを死に由って喪ったと言う同じ過去をもつ二人である。触れられたくない、触れさせたくない心を抱いての再婚なのである。互いにその思いを口にしないのがいたわりあいの心をあらわすものでもあった。
 伸子は野口の籍にはいったが、京子と尚子には本田をなのらせたまま、養子にもしなかったが、そのことについて野口は何も言わなかった。
「ねぇ、お母さん。どうしてお父さんとお母さんは野口なのに、私とおねぇちゃんは本田なの?」
 父親の顔を知り、その思い出をかすかながら抱きつづけている京子には聞くことが出来なかったことを、無邪気な顔をして尚子が訊ねたことがあった。
「あんたがたのお父さんは、あんたの小さいときの亡くなったの。だからそうなのよ。」
 とさりげなく母が答えているのを聞いていたにもかかわらず、野口はそばで新聞を読んでいて、何も言わなかったことを京子は覚えている。
 あれから二十二年。その間に本田の両親も、佐久間の両親も亡くなった。本田からの死亡通知はいつもさりげなく京子にあてられていた。元生伯父夫婦もすっかり老人になって、今では息子の勝生が稼業を受けついでいると伝えて来ていた。
 京子と尚子の結婚がきまったとき、知らせてやった時には、本田元生が伸子にいままでの伸子の苦労と、野口の心遣いを感謝した丁重な手紙と一緒に過分な程のお祝い金を送ってよこした。あの後、彼女たちの生活に全く口を出すこともなく、単に深い関わりを持った知人の立場を保っている。その優しい心遣いに触れると、伸子はまた、清生との遠くなった思い出の日々に引き戻されるのだが、また、そんな彼女を包み込むように穏やかに見ていてくれる野口を有り難いと思うのだった。

  ********************

 五十九歳の伸子が脳出血で急死したのは、たまたま京子が小さな子供たちを連れて、等々力の家に遊びに来ていた夏の日だった。  
 それまで、何の徴候もなかったし、不調を訴えることもなかったので、健康だと思っていたものだから、すっかり動転してしまったけれど、私がいた時でよかったと京子は思う。 
 佐久間の伯父と、従兄の勲が万事滞りなくすすめてくれたのだけれど、倒れた母の身のまわりのことを、すぐにととのえてやることが出来たからである。下着など、臥所の始末はやはり娘の私にして貰いたかったのだろうと思っている。
 弔いは事務をとるように順序よく進んでしまう。颱風が襲ってきて去ってゆくのに似ていた。ただ、忙しく日々が過ぎていったと言う記憶だけがのこされて、季節は秋に移っていた。
 母の衣類のはいっている箪笥を、あの時はじめて京子は開いてみたのだった。勿論、男の野口は引いてみることもなかったであろう。若い頃に着た銘仙の着物などの大凡は、京子たちが結婚するとき、丹前などに縫い直してもたされたので、若くなった紋付や訪問着、古い帯などがキチンと畳まれた入っている引き出しの奥に、見たことのない文箱がひとつ収められているのに気がついた。
 取り出して開けてみると、本田の家からの手紙の束であった。そしてその一番下に清生と並んで笑っている若い母の写真が入っていたのである。母が再婚するときにすっかり整理して、見ることもなくなていた父の写真が、こんなところにひそめられていたというのは驚きであった。
 それと同時に、母の日々の心の奥から本田の父が離れていなかったことが解ったのである。残された野口の父はすでに古稀を過ぎていて、実務から引退して、たまに遊びに来る京子と尚子の子供たちの成長を楽しみにしているだけの老人になっている。
 おだやかで、無口な野口はそんな母の心の奥を知っていただろうか。京子はこの写真見せられないと思った。それを見せるのは残酷と言うものだ。その写真と手紙の束を、京子は尚子にも見せないで自宅に持ち帰った。
 野口は七十歳になった頃から、戦後の極度の栄養失調が原因だろうといわれていたのだが、体調をくずして休むことが多くなっていて、母よりも先に死ぬだろうと笑っていたのだが、気の毒なことになったと思う。
 これを見せることは決して出来ない。それに尚子は自分の本当の父を知らず、野口の父に親しみ、愛されていたから、この写真を見せたら、母を何と思うか。それでは母の立つ瀬がないと思ったのである。
 二年後の早春、野口も風邪をこじらせての肺炎で入院して一週間ばかりで亡くなってしまった。
 京子と尚子は伯父や従兄たちの助言に従って、葬儀から納骨まで万事滞りなく執り行うことが出来て、今ではすっかり落ち着きを取り戻し平穏な日々を重ねて、それから六年の月日が経過していたのである。

  ********************

「あれ、出席の葉書出したわ。尚子が切符を手配してくれるって。」
 会社から帰って来た夫に言い、子供たちにも2日ばかり留守にすることを告げた。
「わあ、いいな。山形はスキーで有名だから、今度遊びに行けるようになるかも・・・。」  
 中学生の息子は言った。
「わたしも雪を見に行きたい・・・」
「そんな我が儘言えないわよ。私だって何しろ二十七年ぶりなのよ。それに私を知ってる伯父さんたちはみんな老人になっていて、亡くなった方々も沢山いるのでしょうに・・・。」
 と応えながら、ふと屈託なく訪問しあえるようになったら嬉しいと思っている自分に気づいた。
「仕様のない暢気なやつらだな、お前たちは。しかし、お前にそんな故郷があるんだったら、おれも行ってみたいと思うよ。」
 と、ビールを飲みながら夫は笑った。
 三日後の朝、尚子から電話があった。
「十月二十六日、朝八時二十分発。蔵王はきっと紅葉がきれいだろうって。ちょうど休日に当たるので、おねぇちゃんを迎えに行ってから、東京駅まで送ってくれるって、武司が言うのよ。お土産を何か用意しなければと思うけど、どうする?明後日デパートへ一緒に行ってきなましょうよ。二人で用意したものでいいと思うんだけど。」
「そうね。集まるのは家のほうなくって蔵王温泉だって言うから、あまり嵩張らないものがいいでしょうね。とにかく久しぶりだから一緒にお昼をしましょうか。見せたいものもあるのよ。出かける前に・・・・」
「何かしら、楽しみにしてるわ。じゃ。十一時に渋谷のハチ公口で待ってる。」
「切符の精算もしたいからキチンと計算してきてね。割り勘よ。」
「解った。解った。手数料はオマケする・・ハハハ」
 尚子の電話はいつも屈託なくて、京子の心を明るくしてくれる。
 京子は今まで夫にも見せずに秘密のままにしたあったあの写真を尚子に見せようと思っていたのである。尚子も三十歳を過ぎ、一人前の母親になっているし、野口の父も亡くなった今ならもう見せてもいいだろう。そしていろいろな話をしてやってもいいだろうし、これが機会だと思ったのである。
 朝食の後かたづけを終わって京子はあの文箱を客間のテーブルに持ち出し、たった一枚、若い父と母が仲良くよりそって笑っているあの写真をとりだした。
 大切に保存してあるつもりだが、モノクロの写真で、少しセピア色に変わっている。これで見ると、私は母に似ているし、尚子は父に似ていると思う。性格は多分私が父に似て、尚子が母に似ているのではないだろうか。
 しばらく眺めてから、厚紙で台紙をつくり、きれいな半紙につつんだ。尚子は何と言うだろうか。
 庭のサルビアとマリーゴールドが、少しだけ秋めいた日差しに輝いて見えた。

  ********************

 お土産に海苔の詰め合わせと、牛肉の缶詰を買って、昼食は少し奮発して懐石料理にした。
「武司やお義兄さんには申し訳ないけれど、女もたまには・・・ね。美味しかったわ。」
「ゆっくりしたところでこれを見せたかったから、ここにしてよかった。」
 デザートの水菓子が運ばれて来て、満足して顔で喜ぶ尚子に、京子はあの写真の包みをとりだしてひろげた。
「これ、お母さんが亡くなったときに、引き出しを整理したら、着物の下に隠されたような文箱があって大切にしまってあったのよ。若いお父さんとお母さん。」
「そうなの。私の記憶には全くない人。でも、これが私たちのお父さんなのね。」
「野口のお父さんはとても優しくて、私たちに本当によくして下さった。でも、私の心の片隅で、本当のお父さんならば、こんなときどうしてくれたかしら、どう言ってくれたかしらなんて思うことがあったの。」
「おねぇちゃんには本当のお父さんの記憶があったんですものね。私の知らない世界が・・・・。でも知らないことが私の幸せだったかもしれないわ。野口のお父さんしか知らないし、自然なかたちで無邪気に向き合うことが出来たんですものね。野口のお父さんを幸せな気分にしてあげることも出来たんじゃないかしら。」
「そうよね。私は性格的に本田のお父さんに似ていたようで、あんたみたいに無邪気に振る舞うことが出来なかったから、野口のお父さんに少し遠慮させていたみたいで、いま思い出すと辛いわ。」
 何回も何回もためつずがめつ写真の若い父と母の顔を眺めていた尚子が、顔を挙げて言った。
「ねぇ。この写真をいとこ会にもっていきましょうよ。きっと本田のお父さんの方の叔母さんとか叔父さんと、お父さんをよく知っている人たちが集まるんでしょ?見せてやりたいわ。私たちがこれを大事にしていると知ったら喜ぶでしょうよ。きっと。」
「そうね。今日はお父さんとお母さんの若く、愛し合っていた頃の写真があって、その二人の子供が私たちだって言うことを、一緒に一緒に確認しておこうと思ってもってきたんだけれど・・・。しまって置けるような小さな額縁をつけてやったらいいかななんて思って・・・。いとこ会にもってゆくのもいいわね。」
「野口のお父さんには申し訳みたいね。この写真をお父さんがひそかに大事にしていたと言うことは、女の複雑な感情だわよね。悲しいけれど、お母さんも私たちの為に辛かったと思うわ。」
「私もそう思う。野口のお父さんもそんなお母さんの心に気がつかないような鈍感な人ではなかったと思うし・・・。いい人よね。お母さんを本当の意味で大きく受け入れていて下さったと思うわ。この写真をみて私はつくづく思ったのよ。小さな子供を残して親は死んでは駄目っていうこと。」
「そうよね。」
 神妙な声で尚子が応えたのにつづけて
「私ね。この写真のことうちの悠太にも言うことが出来ないの。お母さんの心の中を暴いてしまうみたいで、あまりにも悲しい。これがあったのを話したのはあなただけよ。これからもしまって置くつもりなの。でも本田のいとこ達には話して置きたい。お母さんの為にもね。それに山形・蔵王はお父さんの故郷の山でしょ。それも久しぶりで見せてやりたい。故郷の紅葉の山だもの」
 と、言うとうっすらと涙を浮かべて尚子はうなずいた。

  ********************

「行ってきまーす。」
 東京の駅前まで送ってくれた武司に子供のようにはしゃいで手をふる尚子を笑いながら、京子も心の弾みを感じていた。
 土曜日のその日は紅葉の季節にはいっていたこともあり、東北へ向かう列車はかなりの混雑であった。団体客が幾組か、旗をもった添乗員とともに賑やかに乗り込んで来た。
 京子と尚子が連れ立って旅行にでるなどと言うことは今まであっただろうか。鎌倉とか日光とかへは家族で出かけたこともあったが、泊まりがけの二人だけの旅は多分はじめてのことだと思う。
 列車は福島から仙台へ向かい、なめらかな走行を続けていた。レールの継ぎ目がないから、昔のようにゴトン、ゴトンと言う響きは聞こえないと気がついて、京子は少しさびしいなと思った。
「ガタンゴトン、ヤマガタダ、ヤマガタダってお母さんは言ったのよ。」
 と京子は言った。
「なぁに、それ?」
「昔の列車は線路の継ぎ目のところで、ガタン、ゴトンって音がしたのよ。それがヤマガタダ、ヤマガタダと言っているんだって聞かせてくれたんだけれど、今ではそんな音はしないわね。」
「ヘー、昔の人は牧歌的だったわね。お母さんがそんな人だとは知らなかった。」
 仙台で仙山線に乗り換える。急行だとは言っても通り過ぎる駅の名前がはっきり読み取れる程のスピードである。
 京子はバッグのなかから、尚子と一緒に買った小さな額にいれたあの写真をとりだして窓の外に向けて置いた。山形県境の面白山トンネルを越えると山形の名所・立石寺が見えてくる。紅葉がはじまっていて松と切り立った岩山と紅葉の風景に二人は目を奪われた。東北に父の故郷があっも、初めての訪問なのである。
 山形の駅に降りると、Z温泉旅館のバスが待っていて、そこから中年の男が降りて寄ってきた。
「京子ちゃんと尚子ちゃんじゃないですか。みんなあのバスで行くことになっていて、この列車で来るあなた方を待っていたんですよ。」
「あ、あなたは勝生兄さんですか。あの時はお世話になって・・・。ご無沙汰をしていました。これが尚子。」
 と、挨拶をする。勝生は元生の長男で十二歳の時にあった時の記憶にある面影があった。
 その時、
「京子ちゃーん。尚子ちゃーん。」
 と、バスの窓から何人かが声を合わせて呼びかけているのに気がついた。あの写真の父によく似た顔の人々が二人の方に手を振って、笑っていたのである。
 血のつながりという関係は二十七年と言う歳月の谷間を忽ちにして越えることが出来る強さをもった不思議なものであった。京子と尚子の側から見れば、あったこともない人々であるのに・・・・。
 バスには二十人ほどの先客が乗っていた。乗り込むとみんなが拍手をして迎えてくれた。
「この人がミサ伯母さん。あんた方のお父さんの最後を看取った人。これがサチ叔母さん。あんた方のお父さんのすぐ下。そしてその子供・いとこの清志君。雅子さん。哲志君。」
 紹介してくれる勝生兄さんだけしか記憶にない京子と、全く何も解らない尚子には、つぎつぎと紹介される沢山の叔父・叔母そしていとこ達の名前は覚えきれるわけはなかったが、誰もが二人の父の思い出を持ち、母の思い出をもっていて、一言ずつ付け加えてはにこにこ笑いながら話をしてくれる。一人一人とお辞儀を交わしているうちに、次第に自分たちもその中にとけ込んでゆく安らぎを感じていた。
 紅葉のさかりである蔵王の山をぐるぐるとまわるようにして広いハイウエイが通っていた。曲がるたびに変わる景色を見て、みんなが同じように歓声をあげる。二人もその歓声をあげる仲間になっていた。
 主催者として勝生が開会の挨拶をして、出席者六十人あまりものいとこ会が始まる頃には、二人は同じ思い出を共有する血のつながりをもったものとして、すっかり心をひらいていた。
 ハンドバッグから出してみせたあの写真は、ミサ伯母を泣かせ、サチ叔母を泣かせた。そして幼い頃の父のこと、ははとの結婚の経緯などを次々に聞かされて、笑ったり泣いたりした。二人とも自分たちの知らない父と母が、ここではいきいきと生きているのを感じていた。
 次の日、勝生兄さんにつれられて、先祖代々の墓地にお詣りした。大きな墓石に刻まれている父の戒名を二人は指でなぞって見た。 
 知らないでいたけれど、三年前に病気で相次いで亡くなったという伯父の元生と、民江夫婦の戒名の彫りはまだ新しかった。
 今までこの墓地に一人で入っている父だと想像していたが、ここには沢山の親しい人たちがいて、決してさびしがってはいないと思った。みんなの温かい手を握りあって、二人は帰京した。
 二週間後、勝生から全員の記念写真が届いた。
「また会おうと約束をして別れたけれど、この写真を最期にして会えない人もいるだろう。」
 と言う短い手紙が添えられていた。京子は、父と母の記憶を持っている人々とこうして生きている間に会えたと言うことに感動していた。同じ血の流れている心あたたかい人々が、こんなにいるのだと知った今は、もう淋しいなんて思わなくともいい。
 東京にも遅い紅葉の季節が訪れていた。今夜は寒いからみんなで鍋でもかこむことにしようと買い物に出て見ると、いとこ会の返信を出したときにはまだ青かった公園の公孫樹の葉もすっかり黄色になっている。夕方になって、もう公園で遊ぶ子供もいなくなった。通り過ぎながらあの日、帰りの列車の中で尚子が言った言葉を思い出していた。
「野口のお父さんは可哀相ね。ひとりぼっちで・・・・・。私たちは血を引いた子供ではないんだし、こうして血縁の親しさを知ってしまうと、ますますそう思うわ。」
「そうね。こうして沢山のいとこ達と話をしたら、死んだはずのお父さんが本当に身近に思えたんだから、不思議よね。こんな風に話をしてくれる人が野口のお父さんにはないと思うと・・・・。」
「お母さんとこれからいつまでも一緒にいられるのが救いよね。といっても、お墓の中での話だけれど・・・。」
「お父さんは先祖代々のお墓の中で、きっと、あのいとこ会みたいにぎやかにしてると思うわ。お母さんはいなくとも大丈夫。」
 京子はいとこ会の記念写真を入れた額の裏に、あの若い頃の父と母の写真をひそかに重ねて入れて飾ってやろうと考えていた。

 山茶花が一輪、玄関の傍に咲き始めていた。秋も終わりである。

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