誰かが私を呼んでいる。視界のきかない霧の中からその声は聞こえてくる。行ってみようとして足をそちらへ向けると、赤い鼻緒がぷつんと切れてしまう。いつもそうなのだ。呼んでくれるのは文造しか居ないはずなのに、誰かと思うのは何故だろう。ふでのは今朝もそう思って眼が覚めた。赤い鼻緒の下駄をはいていた頃の幼い自分、取り残された不安が現実とは違うとわかっても、しばらくは夢と現の中をさまよっている。
はっきりと眼がさめたふでのは、本当にもうそろそろ迎えにきてくれれもいいのにと呟いていた。
寺の朝は早い。まだ暗いうちから兄の治道は起き出してお勤めをはじめる。庫裏の奥の小部屋にこうして病む身を横たえるようになってから、もう三年近い月日が経ってしまった。文造が死んでから七年あまり、何の楽しみもなかった。あの不安を不安と思わせない傲岸な文造がいたおかげで私は楽しめたようだ。
あの時、父母に背いたような形で文造のところへ嫁いで、精一杯わがままをして、結局はこうしてここに戻って、兄さんの世話になったいる。この苦しみは報いのようだと、霧の中の声を聞いて目覚める度にふでのは思うのだった。
文造が死んでからも、何年かはあの海の見える町で本家の世話になって暮らしていたが、代がわりしてからは居づらくなり、結局は実家の兄の治道を頼ってこの山間の町に帰ってきてしまった。
「生まれた家だ。遠慮するな」
と兄は言い、
「なりたくてこんなになる人はいないでしょ。気にしなくていいのよ。」
と言ってくれる兄嫁のかつは、大家族の中で育った人なので気配りよく、嫌な顔ひとつせずに看取ってくれはするけれど、顔見知りも多い故郷で老残の身を養う立場になったふでのの思いは複雑だった。それに三年ほど前に脳梗塞によって、半身が不自由になってしまっている。
脳梗塞で倒れたとき、たしか文造が呼んでいたような気がするが、気がついたときにはまだ生きていた。私の我が儘の報いとしての生の苦しみ方がまだ足りないとでもいうのだろうかと、ふでのは思ったものだった。
秋づいた風が庫裏への渡り廊下の方から通ってきて、風鈴がかすかな音を響かせた。治道の経はまだ続いている。麻痺して、布団の外で冷えていても感じない左手を右手で持ち上げて胸の上に置く。
細く硬くなったその指は握っても握られた感じがしないのだ。半分は死んでしまった自分を、残された半分の自分が悼みながら生きているのか。治道の声にあわせて低く経を誦えるふでのの耳にまた微かな風鈴の音が聞こえた。
あの朝、眼をさましたとき文造はもういなかった。又、いつもの散歩に出たのだろうと気にもとめず、しまい忘れた風鈴をとりはずして持っていたところへ、ただならぬ顔で隣家の宗吉さんが駆け込んできて、その後から
戸板にのせられた文造が運び込まれたのだった。公園の奥の桜の木から下ろされ、無惨だったと言う顔は整えられてあった。
あの時の風鈴、あの風鈴はどうしたのだったかしら、文造の死とまったく関係のないことを、今は夢見るように、ふでのは思っていた。
部屋の布団に安置した文造の顔を覆う布の白さは確かに死を示唆するものであった。あのとき、動転しながらも胸に組ませてやろうと取った手、秋の朝明けの冷たさに冷え切っていたあの手。あっとふでのは声をあげて、眼を開いた。いまあの時の文造の手の感触を生々しく感じていた自分の右手は、麻痺して変形した自分の左手の指を伸ばそうとしていたのだと気づいたのである。
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結婚しようと言ったあの時の文造の口調はふでのに有無を言わせるものではなかった。考えて見れば大正七年頃に、娘がこともあろうに博労のようなことをしている文造と結婚するなどと言うことを、寺の住職の父が許す筈はなかったのに、文造のこのようにな自信に満ちた様子を頼もしいと思って、反対を押し切ってついてきたふでのなのであった。
当時、小さな山間の町で、年に一度開かれる馬市の賑わいは今でも語りぐさになるほどのものだった。その馬市の時に、他の博労仲間と寺の前に旅人宿に泊まるのが文造のならいであった。
馬産地、といっても農耕馬が主なのだが、を控えたその町は古くからの城下町である。碁盤の目のように造られた通りをもっていて、商家から出た火事が武家屋敷の方に移らないようにと、長い土手を持ったかなりの幅をもった広い空き地がもうけられていて、それが商人町と武家屋敷町を画然と区切ってある。
火除けと呼ばれていてるその空き地で、木々の緑がしげりあう頃にその馬市は開かれた。遠く北海道からも博労が買い付けにやってくるとあって、町は活気づくのであった。
ふでのは十九歳、文造は二十五歳。年頃としては申し分がない。文造は博労のようなことをしているとは言っても、昔は荘内の大きな地主の家の三男坊である。自分の家の馬を売ることから始まったやや道楽めいた博労なのだが、博労は博労。
寺の娘が恋におちるなどとはまことに不謹慎なことである。育ちが悪い訳でなく、きりっとした顔立ちで、金についてもさっぱりしていて、悪い評判はないのだけれど、女嫌いだと仲間たちからからかわれているような男だった。
その日は雨が降っていた。十九の娘盛りにはあまりふさわしくない寺の印のついた番傘をさして、近所へ使いに行った帰り道、ふでのは足駄の歯に石をはさんでしまった。雨は降るし、なかなか石ははずれないしで難渋していた時に、通りかかった文造が難なくはずしてくれたのが、彼らの縁のはじまりだった。白い歯を見せて笑いながら番傘の印を指さして
「光明寺のおじょうさんか?」
と尋ねるのに、うなづいて礼を言うと、
「前の宿に泊まっている三村文造と言うものです。」
と言った。あの時から二人は結婚することに決まってしまったような気がする。思い出すたびにふでのの胸は熱くなる。
次の日、文造からもらったあの赤い蛇の目傘、もう雨はあがっていたけれど何度も開いて閉めて、はじめて持った自分の蛇の目傘の何と華やいで見えたことか。ああ、とふでのはうめいた。この右手の感触はあの日の傘に似ている。現実は棒のようになった左手を押さえているに過ぎないのに・・・。この不随の左手をあの赤い蛇の目傘と思った自分があわれで、目をとじたままでその左手をさすった。それでも父は最後にはふでのに手を取ってもらって、死んでいった。あのころには私の我が儘を許していてくれたと思う。
文造の強引とも思える結婚申し込みに対して、僧侶である父は許可をあたえようとしなかった。財産家の三村家では、自分の菩提寺の和尚をまで介して話を持ち込み、否応も言わせないようなやりかたで、結婚を承諾させたのだった。
本人同士は望み、望まれての結びつきなのだけれども、周囲の、特に父の反対を押し切った形は、よくある恋の成就のための悲劇的な要素の一つだなどと思った自分の世間知らずの若さ、一途さが今のふでのには懐かしく思い出されるのであった。もはや力の失せた手ではあったが、死んでゆくときの父の手は温かかった。
結婚を機として三村の家では十町歩の小作田を分けて、文造を分家した。それだけあれば生活に苦労はない。新家とよばれるようになった二人の家は小さかったが、相応の造りで、泉水のある庭もついている。掃除や庭の手当などは、当時の地主生活だから、本家で一緒に面倒を見てくれるので、心配もなく、女中も一人ついている。ふでのは寺の娘としてやや窮屈に育ってきたこれまでとはまったく違う生活に入ったわけである。
相変わらずの道楽なのか生業なのかわからない文造の商売でも、そこそこの現金収入がある。楽しみながらの暮らしは二人を満足させるものであった。男前の文造が執心しただけあって、ふでのは美人であった。たっぷりとした黒い髪と、色白ですべすべした肌に切れ長の目。寺の娘でいた頃は質素な服装をしていたので目立たなかった美しさが、いま絹物の上等を身につけ、新しい髪型にすると人目をひくほどであった。
文造はそんな彼女を喜び、人力車を連ねて花見だ芝居だと連れ立ってでかけた。当時まだ珍しかった喫茶店などにも揃って行ったりした。時代と言う味方もあって、心華やぐ生活が彼らには許されていた。
ふでのは子供が欲しいと思った。三年経ち、五年経ってもその徴候は見られないのは何となくさびしいものだったが、文造のほうは一向に気にかけていないようで、「そんなことはどうでもいいことだ。」と笑っていた。きれいでひよわそうにみえるふでのの身体のせいで子供ができないのだと親戚のものは噂したが、文造の父母がそのことについて何も言わなかったのには、何か理由があったのかもしれない。
博労のまねごとはもうしなくなった文造は骨董品を取り扱うようになっていた。その方が高級な職業のように思われたし、彼方此方へ買い付けに旅行することが多く、その度にふでのを同行する。
子供がいないからこうして楽しめるのだという言葉にのせられて、彼女も楽しくなかったわけではない。それに子供を産まない身体は美しく整っていて、文造の紳士めいた風采を引き立てるのに役立っていた。それも戦争の始まる前までだった。
ふでのは左手の指を胸の上で動かしてやりながら思い出していた。年齢の関係で出征することはなかったけれど、戦争はやはり戦争で、道楽のような仕事をする地主の生活も思うに任せなくなっていった。文造は軍需工場での馴れない労働にかりだされたりして、帰ってくるとぶつぶつ文句を言う毎日を過ごしていた。
ふでのもそんな文造を気の毒に思い、自由に楽しんで出来る仕事をさせたいと願った。
そして終戦。労働からは開放されたけれど、その後の暮らしは想像をしていたよりも厳しかった。
国の政策での農地解放、それは小作させてそのあがりを取って暮らしたいた彼らには酷なものであった。小作人たちに土地を盗られたといつまでも愚痴を言いあった。骨董品などは誰も目もくれない時代になっていたのである。
日々の生活に追われると言う体験したことのない苦労を二人はしなけらばならなかったのである。贅沢をしてきた着物を売り、道具を売り、時折は同じ没落地主の手放すものを売る仲介をしたりして過ごすことになったのであった。本家も同じ事で、その上戦争中に両親が亡くなり、兄たち夫婦が三村の名前を汚さないような暮らしだけはしなければと努力をしているような有様で、頼りにはならず、文造夫婦とは次第に遠くなっていた。
特に二人には子供もいないので、世間の暮らしと関わることが少なく、孤立してゆくような思いを抱くようになっていったのだった。昭和二十五年。当時としては九百万円は大金だった。発展の一途を辿っていた東豊電機が、その敷地の拡張のために、周りの四軒ばかりの家と一緒に彼らの家を買いたいと申し入れて来たのであった。
この買収の話は彼らにとってまことに好都合なことであった。「大した金ではない。米相場の頃は一晩で手に入る程度のものだ。」などと、文造は豪語して、しぶしぶ売るような振りをしたけれども、所詮は足下を見られていたのであった。彼らの手にした金額には及びもつかない額なのだろうが、近所の人々は売り渡した金で新しい土地に移り、子供や家族が東豊電機に勤めることを条件にしたりして、生活をたてる方便をとったのだけれど、文造はもう五十八歳になっていて、勤めにでるなどは考えのほかであった。
「この家屋敷を売って、その金で余生を楽しむことにしよう。本家も今ではあまり頼りになれるとは思えないし、どうせ子供もいないわれわれだから、どちらかが先に死んだら残された金で暮らしていけるだろう。俺もお前も長生きの血統ではないからな。」
「まず、九百万円を二人別々の口座に預金して、双方から生活費を出し合って使おう。年間二十五万円もあればゆっくりだ。四年で百万円。全部使い切るのには十六年もかかる。二人とも長命の家系ではないし、十六年と言えば俺は七十四歳。それまでは決して生きられまい。どちらかが先に死んだら残された金は残されたものが使えばいい。どうせ、子供もいないのだし、小さい綺麗な家を借りてみても月々の家賃は五千円がところだろう。本家の家作をつかうこともできるだろうし・・・。自分の家でないほうが死んだときのことを考えれば後始末も簡単だ。全部使って死ねばいいんだから。」
「何だか悪いみたいだわ。あんたが先に死ねば私が残ったお金を全部貰えるなんて・・・」
「いやいや、それはどうなるかわからないぞ。お前が先かも知れない。あははは。先に死んだものが、適当な時期に迎えに来ることにしよう。安心して残れるようにな。」
あの時、笑いながら二人で交わした言葉は現実的なものではなかったのだけれども、思いがけない大金を手にした為にあんな夢を見てしまったと、今では思い起こされる。
計画通りにことが進んだのは最初の二年位のものだった。思い通りに、本家から小さな家作を借りることにして(あくまでも貸家として使わせてもらい、修繕は本家任せになるような工夫であった)、そこに移るときに処理した家財道具もかなりの額で処分出来たので、手元の金は少し増えたのだったが、物価の変動を考えに入れない甘い計画がつぶれてしまうのには五年もかからなかった。
名義は二人に分けてはあっても、金の出し入れはずべて文造がしていたので、ふでのは全く気がつかなかったのである。
家の中は本当に空っぽだった。一人残されて始めて自分たちの頼りにしてきたお金がもはや半分以上も費やされていたことに気がついたのである。
そして、傲慢に見えるほどに自信に満ちていた文造が、無気力になっていったのを、単に老化のせいだろうなどと思って気にもしていなかったうかつさにを悔いたのであった。 すでに六十二歳の文造には新しく事業を興すなどと言うことも出来なかっただろう。売るものとてもない頼りなさを一人で耐えていたのだろうかと思うとやりきれなかった。
遺書もなかった。書かなくともわかると思ったのだろうか。二人でいればどうしても昔を思い、無駄な金も使ってしまう。一人ならばまだ大丈夫だと思ったのだろうか。適当な時期が来たら迎えに来るからなどと笑いながら言ったのに・・・。
あの人はこうして迎えを待っている悲しみを知らずに死んだ。半身が不随になってあの人のように一思いにと言うことも叶わない。こうして死んでしまったと同じ半身を、自らになでさすりながら衰えて死ぬのを待つだけの哀れさをあの人は思わなかったのか。
「もう、本当に適当な頃合いなのに・・・」
とふでのは呟いて目を閉じた。
悲しそうな目つきをして、母が歩いてきた。母は父が死んでから三年ばかり後に腎臓を病んで、むくんだ顔をしたままで死んでいったのだが、いまふでのの前には文造のところへ嫁ぐと決めたとき、父との間に立って苦しんだ頃の母がいたのである。
「お前はどうしてこうなんだろうね。もうそろそろ気づいてもいいだろうに・・・」
「何に気づけばいいの。」
と問い返せば、母は黙って後を向いた。不意に、寺の裏手の柿の木に登っている幼いふでのがいた。赤い柿の色が鮮やかに目にしみる・思いがけないほどに身軽さで登れたので嬉しくなったいたが、下を見ると目の眩むほどの高さになっていた。一人で降りようにも足がすくんだ。
「ふでの。ふでの、動かないでだまってつかまっていなさい。いま行くから・・・」
「お母さん、助けて・・・・」
母が登ってくる。軽々と登ってきて手を伸ばした。その手に触れようとしたとき、柿の葉が一枚、ひらひらと目の前を飛んでゆき、母はいなくなっていた。そしてふでのはしっかりと枝にしがみついた。それは硬く細い自分の左手なのだった。
「ふでのさん。何の夢をみていたの。」
兄嫁のかつが朝の清拭の用意をして入って来て聞いた。ふでのと同じ歳のかつにはもう四人の大きい孫がいる。子供にも恵まれ、その長男が寺の跡継ぎになっていると言う安穏な暮らしで、年齢よりも若く見えるし元気である。
渡してくれた熱いタオルを右手にもらって顔を撫でるように拭きながら、
「柿の木に登ってね。」
と言うと、
「何と元気だこと。身軽に動けて楽しかったでしょ?」
と言って屈託なく笑った。この明るさにふでのは救われた思いがするのだ。「誰も好きこのんでこんなになるんじゃないんですもの、気にしないで・・。」といつものように言いながら、身体を拭いてくれるかつに、母がのばした手をつかみ損ねたとは言わなかった。
そして、しがみついた枝が自分の左手だった哀れさみ言えなかった。母の手にすがれたら死ねただろうと思っていることも・・・。
かつが清拭を終わって出て行くと、朝のお勤めの終わった治道が顔を見に来る。
「どうだ。今朝は・・・。」
「いい気分ですよ。お姉さんにはいつも難儀させて、ごめんなさい。」
「うん。」
決まり切った二人の会話だった。きちんと剃り落としているので白髪は目立たないが、長い眉毛の白さに年齢がうかがわれる。平安の生活をしているかれには、この妹の変転の生き方を静かに見守ってやる余裕があった。
「あの柿の木に登った夢をみたのよ。」
「うん、あの時のことか」
「お母さんののばしてくれた手をつかみ損ねてしまった。」
「そうか。」
幼い日の思い出を重ねて二人はしばらく黙った。それぞれの胸の中にあの遠い日の風景が鮮やかに甦っていた。
「あの柿の木も朽ちてしまった。」
「そうよね。でも、あの頃のまんまでった。お母さんも若くて・・・。」
「あの頃のお前は幸せだった。みんなに可愛がられていたからな。」
「でも兄さんには随分いじめられたわ。」
ふでのはこんな風に甘えられるのはこの治道だけだと言うことをよく承知していたし、治道の方でもその哀れさを受け止めてくれていた。
治道がでていってからも、ふでのはしばらく夢を思い出していた。こうして、はっきり夢を記憶するようになって久しい。半身不随になってからは、夢の中で軽やかに動く自分を楽しいもののように感じていた。覚めるときの瞬時は激しく不安で、覚めればまた自由のきかない現実がある。いつまでも夢の中にいられたらどんなに嬉しいだろうと、覚めれば思うのである。
しかし、その夢の中に文造が生きて現れることはなかった。いつも目覚めの不安感の中に、あの死に顔で現れて来て、哀れな現実に引き戻すという繰り返しを何回も体験させられているのだ。本当に迎えに来てくれる気があの人にあるのだろうか。
また、遠くで風鈴が鳴っている。治道の孫たちが賑やかに出かける音がした。夏休みも終わって、庭の蝉の声が聞けるのももう少しの間だろう。朝ご飯をいただいたら、庭の見えるところまで這いだしていってみようかしら。朽ちてしまったあの思い出の柿の木のあたりを見てみたいものだ。清拭をした後のさっぱりした気分の中でも思うのは幼いときのことばかりだ。もう未来に夢を見ることはないから・・・。
目をつぶると、ふでのはまた夢と現の間をたゆたう。今度呼ぶ声がしたら、裸足でもいい、走ってゆくことにしよう。よんでいるのはあの人に決まっているのだもの。そのときはこの赤い蛇の目傘を忘れないで持ってゆこう。そうだ。これは忘れないで持っていけるように、今度は枕元に置いて寝ることにしよう。きっとあの人は喜んでくれる筈だ。左手をさすりながら、ふでのは思い微笑していた。
暑くなるのだろうか。まだ朝だというのに、窓際の梨の木に蝉がとまってじいじいとしきりに鳴き出していた。
終わり