ある日、居合いを習っていた兄が、奥の座敷で「ヨリ子。一寸やって見せようか」と言って、床の間の刀架から父の大事の刀をとって居合いの真似をして見せた日のことを今も時折思い出します。
奥の座敷と言っていたその座敷は、古い造りの上、天井もあまり高くなく、北向きでしたので日が差し込むわけではありませんでした。暗いはずなのですが、その日は何故か明るかったような気がします。
勿論、未熟な腕前のことですから、二,三度振り回しているうちに、見事に失敗して畳表を切ってしまったのです。切られた畳表はすーっと一本の切れ目が入っただけで目立ちませんでしたが、その内に少しずつ口を開けてきて、見る度にあのギラッ、ギラッと光った刀の事を思い出させました。
大事の刀を振り回したり、畳表を切ってしまったりして、兄は多分しかられたと思うのですが、その記憶はありません。遠い日の幼い記憶です。
第二次世界大戦に出征する叔父がありました。祖父と父は相談して、家にあった刀を軍刀拵えにして持たせる事にしたのでした。
祖父と父はその拵えができあがって来たとき、やはり奥の座敷でそれを抜いて「ウン、ウン。」と肯きあって刀身をかざして見ていました。私は黒い鞘にピカピカ光る金具のついている拵えの方に魅力を感じました。
「行ってまいります」
と敬礼をし丁寧に挨拶をして出ていった叔父の佩いた軍刀が、歩く度に凛々しい光を放つのにみとれていました。
英霊となって帰ってきた叔父は、もう軍刀は佩いてはおりませんでしたが、この叔父を話題にするときにはいつもあの軍刀を思い出すのです。
小学校のお習字の時間。私は文鎮を買って貰えませんでした。黒い梅の花の透かし彫りのある刀の鍔に、母が紫色の絹糸で組んだ紐をつけてくれたのを使わせられました。
今だったらその方がずっとお洒落で、粋で、高級だと言うことがわかりますが、幼いときですから、友だちの使う銀色に光るのや、透明な硝子に貝を埋め込んだりしたものを素敵な文鎮だと思ってうらやましくて仕方がなかったものです。
物のなかった時代、半分に折れた刀の先の方に、握りになるように布を巻いて小刀代わりにし、根元の方は鉈代わりにして使っていました。
特製の小刀は芝居に出てくる博徒の匕首に似ているので、少々気に掛かるものでしたたが、結構役に立ちました。鉈にした方は力任せに切るものですから切れ味の方はどうだったかはわかりません。
庭木をおろした枝をまとめたりするのには手頃な大きさですから、これも又便利につかったものでした。
刃こぼれしたこれらがどうなったかは覚えていません。
「人間は芝居のようにスパーッとなんか切れるものではない。力任せに殴りつけるようにしなければならない上に、血や脂が付着するので切れ味がすぐに落ちてしまうのだ。芝居の殺陣のようには行かないものだ。それに斬りつければ必ず返り血がパーッと噴き出すものだ。」
「人を斬ったあとは刀に残るもので、家にある刀にもちゃーんと着いているんだぞ」
などと、さも恐ろしげに兄が話して聞かせるので、次第に刀と血潮の連想は私の中に固定していったように思われます。
家の男たちはみな刀好きでした。五月の節句には座敷に具足を刀を飾り、数振りの刀の手入れをするのが、毎年のならいでした。
あの暗い奥の座敷も、雨戸をすっかり開け放つと五月の明るい光がさしいります。
そこで、父たちは無言で刀身を上から下までためつすがめつ眺め、何回も何回も打ち粉をしては拭き取り、さびないように手入れをする作業をしていたものです。
夕かげってくると、唇にはさんだ懐紙の白さが妙に浮き上がって見えるのでした。
嫁いで来る前、父はよく銘刀の話をしてくれました。お前は男に生まれてくればよかったのだといつも言う父でした。私はいい聞き役だったと思います。
「鎬(しのぎ)をけずるの鎬は刀の部分の名称だ」と言えば「ドコドコ?」と返しましたし、「折り紙付きという言葉は、刀の鑑定から出たのだ」と言えば「フーン」と感心してみせましたから・・。
そんなわけで、日本刀の歴史をはじめとして、名工の系譜、製作の科学的な理屈とその優秀性、鑑賞の仕方まで、その時に聞かされた言葉を記憶の中から幾つか拾い出しますと、「大刀、短刀、鞘巻、切刃造、平造、直刀、T字みだれ、のたれ、沸(にえ)、にほい、等々押しつけるよう話して聞かせてくれたものでした。それは父自身が陶酔しているような感じでした。
でも、不肖の娘は、日本刀の均整の採れた美しさを否定はしませんけれど、冷酷とも見える隙のない形をどこかで拒否していたのですね。
こんな環境に育ちましたから、刀をまったく嫌いにはなれないのも当然でしょう。ただ、私の興味は前にも書いたように拵えの方にありました。
幼い頃、父がナイフ代わりに使っていた小柄に龍の象嵌があって素敵だったなどと言うことを忘れないのですから。
人間は中身が重要で、刀だって同じでしょう。刀身の良さが第一だとは理解しています。絵で言えば額縁、表装の類に 当たるであろう拵えに執着することは、女の衣装道楽のようなものなのかも知れません。でも、殺伐なものを美しく包み込み、危険を感じさせない不思議さに私は共感するのです。
そんな訳で、よい細工の拵えを、昔風に言えば中身は竹光でもいいですから、座敷の刀架にかざり、秋ならば竜胆の一本を添えて飾ってみたいと思っているのです。
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